すでに会期は終わっちゃってますが、国立新美術館『クリスチャン・ボルタンスキー Lifetime』に行っていたのでした。
フランスの作家・ボルタンスキーの大回顧展というにふさわしく、最初期の映像作品に始まり、これまでの作品が所狭しと配置されています。無数に顔写真や家族の記録が並び、誰だか知らないがとにかくたくさんの死者の追悼式場に来たかのような展示には、ダウナーに圧倒されます。
影が踊る「幽霊の廊下」を経た頃には、私たち自身も思念だけの存在に成り果てたのかのように感じます。
ただ一つの問いかけを延々とささやく「発言する」は、どうやって私たちが死んだのかを思い出させてくれます。あっという間だった?痛かった?光が見えた?
その土地の風を受けて音を鳴らし続ける「アミニタス」と「ミステリオス」の映像。私たちがいなくなった後もそこに存在し、誰がなんのために設置したのか、その記憶をすっぽり無くしてただ音を鳴らす物体になっていくのではないか。それを私たちは漂いながら認識し続けるだけになるのだろうという感覚を覚えます。ややSF的。
私たちが残してきた物体も永遠ではない。訪問した会期後半、「黄昏」のほとんどが死んでしまっていました。
などとポエミーな感傷に浸ってしまうような凄まじい展示でした。しかし正直に言えば、私はやや不満。ここでは自分の身体性を感じる瞬間がまるでなかったからです。特に残念だったのは、心臓音の音量の小ささ。豊島や妻有では、音圧でびりびりと体を揺すぶられる感覚にこそ圧倒されました。視覚を奪う暗闇も、香ばしい干し草の香りも、風鈴と同調して頬を撫でる風も、ここにはないのです。
ボルタンスキーは、例えば「アミニタス」が置いてある場所などを聖地として、いずれ巡礼者が現れることも目論んでいるとかいないとか。目論み通り、身体性を求めて私は巡礼するかもしれません。
ボルタンスキーと対になると評判の森美術館『潮田千春展:魂が震える』もハシゴしてきました。インスタスポットとしても注目を集め、混雑すると聞いていたので18時ごろ訪れたのですが、それでもチケット発券まで長蛇の列ができていました。
線が空間を埋め尽くす様子に圧倒されます。赤い糸は血潮のごとく。
線はつなぐもの・つなぎとめるものの象徴でしょうか。身体ですらただの線の集合体に解きほぐすことができるでしょう。
線は紡がれていた記憶も表すのかもしれません。
魂はただ、生と死の線上に漂うだけのものなのかも。
展覧会のラストは、ドイツの子ども達が魂(ゼーレ)について議論する映像。
魂は家みたいなものだと思う。その家は自分で部屋を増やしたり、減らしたりできるの。
成長していくと、小さな子どもの頃の記憶を忘れてしまう。まるでその家の部屋が閉ざされてしまったみたいに。でもまだちゃんと、そこにある。
例えば、どこか素敵な場所のことを忘れてしまったとする。でももし、またそこを訪れることがあったら、思い出が蘇って、部屋はもう一度、開くかもしれない。
魂を壊すことはできないと思う。
六本木で死を思い、在り続ける魂を考える夜でした。