フジロック明けの朝、ちょっとした雨音を聞き、車中で目を覚ます。足を折り曲げるように寝ていたが、意外と元気なものである。この駐車場は朝7時までなので、グダグダしてはいられない。何はともあれ雪さきの湯に入浴に行く。ちょうど徹夜のオーディエンスが出てきた時間と被ったようで、なかなかの混雑。そそくさとシャワーを浴びて、山を下り、湯沢道路ステーションで歯を磨いたらようやく人心地ついた。雲は厚いものの天気は好転してくる予報である。
フジロックへの道行を考えているときに、ちょうど大地の芸術祭の期間中でもあることに気づいた。それならば、ということもあり、新潟拠点の旅程としたのである。2018年にも訪れていて、3年後にもまた来たいなどと言っていたが、結局6年後の再訪である。前回はおおよそ2日かけて巡ったが、今回は1日のみでまわる。パスポートは昨日のうちに南魚沼の道の駅で引き換えておいた。
石打から中里に抜ける道すがら、清津峡に寄っていこう。2018年に新作として公開された「Tunnel of Light」は、今や新潟の観光紹介のメインビジュアルの一つとなるくらいの映えスポットの扱いである。8時半の開場に向けて20人ほどの行列ができていたが、ざっと見たところで芸術祭のパスポートを提示する人は他にいなかった。
前に来た時は曇っていたが今日は快晴。その分光が満ち満ちて美しい。水鏡を維持しようとみんなが端をそろそろ進んだ以前とは違い、結構ざぶざぶと入っていく人が多い。この場所に対する認識は変わってきているのだな。
内海昭子「たくさんの失われた窓のために」も再訪。この窓から見える景色は、妻有にある幾多の窓が切り取っているごく普通の風景と変わらないんだなと思うと、より愛おしく思えた。
津南エリアに移動して、今年の新作、ニキータ・カダン「別の場所から来た物」へ。トヤ沢砂防堰堤の駐車場に車を停めて国道をくぐって道向かいにいくのだが、いよいよ気温が30℃を超え、わずかな距離でも汗が噴き出る。時間より少し早かったが、ちょうどゲートの鍵を開けてくださるところだった。
入ることのできない場所にあるピカピカの遊具。見えるけれど手の届かない幸せ。手が届かないのは、距離があるからか、昔のことであるからか。
そもそも目を惹くのはこの巨大建造物である。これは実は発電所用の連絡水槽で、なんと1939年から稼働しているという。信濃川の水をサイフォンで導き、その先の水力発電への水圧調整を担っている。そうだ、2018年にはここに磯辺行久「サイフォン導水のモニュメント」があり、暗渠が可視化されていた。
トヤ沢砂防堰堤も土木力の高い特徴的な作りをしている。川や水を利用し共存してきた歴史を思わせられる場所である。
そして、ボルタンスキーが残した聖地のひとつ「最後の教室」に巡礼。
突然の静寂、干草の香り、扇風機の微風でゆらめく電球。響く心臓音。
親娘が怖がりながら歩いている。さながらおばけ屋敷だ。だけど、不在を表現するというのは、鑑賞者の前におばけが立ち現れるのと同じようなことなのかもしれない。
ここで感じられる現世から離れていくような感覚はなんだろう。やはり僕にとっては大切な場所であると再確認できた。
アイシャ・エルクメン「in and out」。確かに外観は印象的だが…。
中国ハウスからは「野辺の泡」が膨らみ出ていた。空気が抜けないよう慎重に、風で揺らぐ泡の中に入る。木々や草が薄ぼんやりと影を投げかける。不安定さはまさに泡だ。ところが中はサウナのようで撤退。
中国ハウスの2階には、風鈴の音も涼しげな最高な勉強机があった。理想の書斎と言って良い。10年間で100人の作家が関わったという歴史に触れる。
こういうところのトキに新潟を感じる。
松代の道の駅まで出て、きくやキッチンで車麩の月見丼をいただく。驚きの分厚さに圧倒されるも、お腹に優しい感じだ。
さて、ここのメニューに「あんぼおにぎり」というのがあった。米粉で具材を包んだ伝統食をなんとおにぎりにした、ということで、写真を見る限り、餡子入りの饅頭をさらに米で包んだような力づよいイメージである。あんぼとはなんなのか気になってしまうではないか。
下の土産物屋を物色すると冷凍であんぼが売っている。すぐには食べられないか、と落胆すると、「本日、生あんぼあります!」と嬉しいPOPがついているではないか。レジ前に並ぶあんぼはまさかの3色。取り急ぎ白あんぼを買い食べてみると、中身は大根菜。これはモッチモチのおやきと考えればいいのか、ともかくすごく美味しい。腹持ちも良さそうで、素晴らしいおやつである。
あんぼでエネルギーチャージし、松代城に向かう。ところが駐車場から10分15分の登りでこのエネルギーが尽きかける。とにかく暑い日で、汗がとめどなく流れる。
着いた…。
2階の豊福亮「樂聚第」では金ピカの中にさまざまなモチーフが描かれている。伊勢海老とか高級なものもあるけど、氷柱とか熊とか大根とか、親しみの持てるものもあって楽しい。自分の好きなもでこうして金ピカに彩った空間が自室にも欲しいものだ。そしてこのフロアにはエアコンがあるので、しばし涼をとらせてもらった。
3階は「脱皮する時」で、「脱皮する家」の豪華絢爛バージョンか。足裏の質感や木の香りが優しい「脱皮する家」の方が居心地は良いかな。しかし眺望は素敵だ。
エステル・ストッカー「憧れの眺望」は、トロン的ポリゴン世界に入ったようである。
城主たくさんおって歴史あるんだな〜と見ていたがどうもおかしい。平成から始まって毎年変わっているし、よく見ると「乗っ取れ松代城」と書いてある。受付のおじさんに聞いてみると、麓から障害物を超えて駆け上る競争を毎年やっており、その優勝者が城主になるとのこと。完走者は古民家はりつけの刑などに処される楽しそうな競争だ。冬の越後妻有も面白そうだ。
農舞台まで戻る。ここではイリヤ&エミリア・カバコフの作品群を見ることができる。
旧ソ連の架空の人物の夢を保存する「プロジェクト宮殿」の一連の作品はどれも微笑ましい。意図的に危機的状況に身を置くことで天使に出会う機会を作る梯子など、寓話的なユートピアが描かれる。
善良できちんとした人間になるには天使の羽を背負えばいいというライフハック。でも家族に見られたら恥ずかしいから気をつけよう。
同じくカバコフの「人生のアーチ」では作家本人の人生が重ね合わせられる。光を求めて重荷を背負い、壁を越えようとしては疲れ果てるという姿には、旧ソ連で逮捕を恐れながら芸術活動を行い、亡命先のアメリカで疎外感を感じた境遇が重ねられる。こうした人生もあって、果たせなかった・果たせない夢や希望の輝きを切り取ることができたのかもしれない。
公開が終わるという「影向の家」で目を凝らし、「段丘崖のため池」に寄った後に向かったのは景山健「HERE-UPON」。神社の脇に、コロナ期に芽生えた幼木を包み込むような作品が佇む。のっそりと足が動き出しそうだ。水木しげるの妖怪のようで愉快である。
ナカゴグリーンパークへ向かう川西のまっすぐな道は2018年にも走ったなと思い出した。空がすっかり日本の夏という感じだ。のんびり走っていたら、タレル「光の家」の開場時間には間に合わなかった。
アントニー・ゴーグリー「もうひとつの特異点」に立ち寄ったらもう夕方だ。お婆さんがやっている小さな宿に先にチェックインし、荷物を置いていく。
道の駅クロス10には笹団子が小分けで売っていて嬉しい。
今回の芸術祭巡りの最後はMonET。夕日が差し込む時間帯は人もまばらで落ち着いている。
ウクライナのニキータ・カダンのドローイング「大地の影」では、目を凝らすと、豊穣な大地に死体を思わせる人や馬の影が横たわる。豊かな土壌は死の分解の上に成り立っていることと、ウクライナで続く戦争のイメージが重なる。
ターニャ・バダニナ「白い服 未来の思い出」は、越後妻有の野良着を神聖な姿に変えている。積み重ねられた野良作業のこれまでや関わった人々の思いがそのまま天に昇っていくような佇まいで印象的だった。
これにて僕の大地の芸術祭2024はおしまい。
十日町産業文化発信館が予約でいっぱいだったので、小嶋屋本店で本日もへぎそば。喉越しがすごく良いツルツルしたそばで美味しい。振り返ってみれば、2018年は小嶋屋和亭に行っていて、図らずも思い出を辿るような食事となった。
宿に戻ると玄関はカエルだらけになっており、田園地帯の夏の夜のパワーを感じながら就寝したのであった。